流れる風が、春の空に輝きを描く。 手のひらを仰ぎ、指でなぞりたくなりような心地良い暖かさに、終わる冬の寂しさと、新しい季節の虚無感を感じた。 3月は真っ白な季節だ。 全てが終わり、全てが始まりを迎える特別な月。 ふんわりとした曖昧な色の中に、漠然とした不安と、未知への期待を抱いている。 めぐる季節は目まぐるしく。積み重なった記憶は、いつしか遠い思い出となって、最後に戻ってきた3月に想う。 追憶の中に溶け込む掛け替えの無い日々は、いつだって。過ぎ去ってから、その大切さに気づかされた。 春を想ひ、君を恋ふ 『 ……そうして貴方の心は少しずつ、少しずつ変わりゆくのでしょう。 ……私の想いは今、この時にも募るばかりで、残酷に私を苦しめてゆくのです。 貴方にはそれがお分かりにならないのです。……そう、……例え、いつしか 貴方を想うか故に、この胸が押し潰されしまっても、 ……私は貴方を、受け入れることなど出来ないのですから。 …… 』 ひらり、原稿用紙が気まぐれな春に舞う。 ひとひらの桜を乗せて、庭へ飛んで行きそうになったところで、美咲の手が紙の端を捕まえた。 書き途中の原稿の最後の行にはインクが所々に滲み、続きを紡ぐには紙を変えた方が良さそうだ。 きっとまた、相川に怒られてしまうのでは無いだろうか。書斎の机でうたた寝をしている秋彦が、原稿が風に攫われそうになっていたことに気づいた様子は無かった。 そっと机の上に書きかけの原稿と新しい用紙を置くと、美咲の気配に秋彦がむくりとこちらを見上げる。 「開けながら仕事すんなよ、原稿飛んでっちゃうよ?」 机と美咲を交互に見てから、秋彦はああ、と納得した様子で眠たげに目をこする。 そんな様子に小さな吐息を零しながら部屋を出ようとした所で、後ろから美咲、と声を掛けられた。 「なに?」 「お茶が飲みたい…冷たいの」 「はいはい、ついでに少し休めば?まだ締切まで時間あるんでしょ?」 「お前も一緒にいてくれるなら」 「え…、俺はいいよ、これから洗濯物取り込まなくちゃ」 「いいから、一人で飲んでも味気ない」 振り返ってみると、秋彦は原稿をぼんやりと眺めながら、続きを書くこともなく、右手で万年筆を弄んでいた。 「…はいはい、じゃあこっち来なよ、すぐ用意するから」 季節は春だった。 早咲きの桜は今年も満開を迎え、少しずつ散り始めようとしている。 昨年の今頃、3人で眺めた桜を今年は縁側で2人、お茶を啜りながら見上げている。 ほんの僅かに冬の気配を残す空気に包まれた、柔らかな陽の光を浴びる午後、この季節に過ごす一時。この時が、たまらなく愛おしくて心地いい――――――。 いつしか、秋彦の小説に、そんなことが書かれていたような気がする。 昨年と何一つ変わりなく、桜は綺麗に陽だまりの中に輝いていた。 「最近、兄ちゃんから手紙来ないね」 「そういえばそうだな」 「仕事、忙しいのかな…すぐ無理するから、身体壊してなけばいいけど…」 年始の挨拶を最後に、孝浩からの連絡は途絶えていた。 今に始まったことではないし、悪い知らせも聞かないので、元気に働いているとは思うのだが、やはり音沙汰無しというのはどうしても心配になってしまう。 それはきっと、この人も同じ心境の筈なのだが……。 それを表情に出すことは全く無く、秋彦は今もゆっくりとお茶を飲みながら、ぼんやりと桜を眺めていた。 「あいつなら大丈夫だろう、それに、向こうで1人ってわけじゃないんだ」 「そ、それは…そうだけど……」 しまった、と思い口を噤んだが逆効果で、2人の間には沈黙が訪れた。 話題を変えようにも今すぐ何かが思いつくこともなく、そわそわしていると、不意に秋彦が隣で小さく笑った。 「そんなに気を遣うな、俺なら大丈夫だから」 「で、でも……」 「そうやってお前が心配してくれるだけで十分だ、それに…」 と、そこで秋彦は不意に口を噤む。 きょとんとして秋彦を見上げれば、優しい眼差しがこちらへ向けられていた。 「――――な、何?」 「いや、どうしてかな、随分と楽になったもんだよ」 苦笑混じりの言葉と共に、秋彦は庭へ向けた表情を綻ばせる。 そこには何処か、戸惑うような響きが込められていた。 「…どういうこと?」 「さあな」 すると秋彦は、ぐしゃぐしゃと乱暴に美咲の頭をかき回し始めた。 突然のことにお茶を取りこぼしそうになり、痛い離せやめろと騒ぎ立てても、秋彦は笑いながらその手を止めようとはしなかった。 「お茶が溢れちゃったじゃんか!」 「お前がじっとしていないのが悪い」 「この状況でできるか!!」 ぐしゃぐしゃになった髪の毛を直すふりをして、どぎまぎと赤面した顔を隠すと、秋彦は相変わらず楽しそうに笑っていた。 「――ほら美咲、今年も桜が綺麗じゃないか」 その声にちらを横を盗み見ると、桜を見ていると思った顔はこちらを向いていて。 その表情に、美咲は跳ね上がった心臓と共にすかさず顔を背けた。 (……、……………何だ、今の……) 普段はなかなか見せることのない、笑顔だった。それもとても柔らかで、優しくて。 瞠目した瞳が、鼓動のなかで揺れている。 どんな顔をすれば良いのか分からなくて、ふてくされた振りをしたままそっぽを向いていると、視線の先の縁側へ、ひらりと桜の花びらが舞い降りた。 見上げた先に、はらはらと舞う桜は光そのもので、庭に差し込むひだまりも、全てが特別に切り取られた空間のように存在している。 鼓動の疼きが動揺を焦がすなかで、風の音が優しく触れる無音の世界だけが、二人を包み込んでいた。 2013.8.18 |