以前出した昭和パロ本のすこしだけ後日な話(番外??)です。
お話が分からなくても、多分大丈夫かと。
とりあえず兄ちゃんに片想いなウサギさんと、ウサギさんに片想いな美咲くんのお話です。














雪や滾々、あられや、滾々
降っても、降っても、際限なく








粉雪に染まる






外から染み込んで来たのだろうか、しんと冷え切った廊下は、雪の匂いに満たされていた。
家の中は普段よりも薄暗く、しんと静まり返っている。
水に満たされたバケツを置けば、透き通るような静寂の中に、水音は大きく響き、天井や床の隅に潜む闇の中へ溶け込んで行った。

「――――――――」

その手にぎゅっと力を込めた瞬間、引き裂かれるような激痛に、美咲は息を詰まらせた。痛みは全身へと駆け巡り、咄嗟に手を強く握りしめる。
じりじりと毟られるようなそれに、体はぶるりと震えた。
そろそろと震える手を開くと、じわりと広がる熱と痛みに顔を歪める。
開いた手を見れば、指先の至る所から血が滲んでいる。
薄暗闇にぼんやりと浮かぶ傷は痛々しく、美咲は小刻みに震える両手を眺めながら、小さく溜息を零した。

この季節、沢山の仕事の中で何よりも辛いのは水仕事だ。
炊事や食器を洗う際に手を晒す水は、凍り着いてしまっても可笑しくないほどに冷たい。
廊下の水拭きも例外無く美咲の仕事に含まれていて、特に今日はいっそう寒く、早朝から雪が降り続けていた。
どうやら雑巾を絞った所で傷に障ったらしい。
誤魔化しきれないほどの疼きがじりじりと手のひらを包み込んでいる。
それでも何とか雑巾を握り直そうとするが、かじかむ手は力加減を上手く調節することが出来ず、美咲は歯を食いしばった。
するとその時、背後の襖が開く音がして、振り返れば秋彦が顔を出していた。

「あ…ごめん、うるさかった?」
「そうじゃない、明日の午後相川が来るんだが、お前に言ってなかったなと思って、だから明日、」

すると秋彦は不意にそこで口を閉ざすと、こちらをじっと見つめてくる。

「どうしたの」
「……美咲、廊下の水拭きはそんなに頻繁にやらなくて良いと、この間もお前に言わなかったか?」
「え、あぁ、うん…」

ぎくりと顔を逸らすと、美咲はそれとなく指先が隠れるように、雑巾をきゅっと握りしめる。

「だから、少しは間隔開けるように……してるよ?」
「ここ最近毎日?」
「う…」

すかさず突っ込まれ、返答に困って視線を泳がせると、秋彦は小さく溜息を吐いた。

「掃き掃除で足りるし、こんなに寒いんだ、今日は控えろ」
「ほ、ほら、でもこれが俺の仕事だからさ」

両手をさり気なく秋彦の視線から外すと、美咲は秋彦に背を向け、雑巾を絞る振りをした。

「あーそれで相川さんだっけ?寒いのに大変だね、早めに起こせば良いんだよね、あとお茶の準備も、ちゃんとしとくから」
「美咲…」

それとなく逃げるために立ちあがろうとした瞬間、突然近くで名前を呼ばれた。
びくりと跳ね上がるように振り返れば、いつの間にかしゃがみ込んでいた秋彦に腕を掴まれる。

「!ちょ、っ」
「………」

慌てて引こうとした手は強く引き戻され、秋彦は美咲の手のひらをまじまじと見つめ、僅かに眉をひそめる。
瞳を瞠目させた先では傷だらけの指先が、秋彦の視線に晒されてみっともなくふるえていた。
そしてそれは、呼吸が止まってしまうような、一瞬の出来事。
秋彦はそのまま強い力で美咲の体を引きあげて無理やり立ち上がらせた。

「わ、ち、ちょっと、ウサギさん!」
「来て」
「手…っ、俺、いま手が汚い」
「いいから」

ぎゅ、とまた、秋彦の手に力が込められて、温もりに包まれたそこからは、じわじわと熱が広がっていく。
言葉を掛けることも、手を振り払うことも出来ずに、美咲は腕と相手の背中へ視線を忙しなく彷徨させた。
見上げた背中はこちらを振り返ることなく、廊下を進んで行く。手は相変わらずしっかり握られていた。
そのうち顔を俯かせると、秋彦に手を引かれるがままに歩いていく。
しんと足音だけが響く廊下に、その手の温もりだけが鮮明で、歩きながら美咲は、自分の腕を包み込む大きな手を、いつまでも見つめていた。



連れて来られたのは秋彦の書斎だった。
狭い室内は暖かく、入った瞬間柔らかな空気がふんわりと、美咲の頬を撫でた。
秋彦はストーブの上で湧いていた薬缶から、水の張った桶に湯を注ぐ。
やがてほどよい温度の湯で満たされた桶を美咲の前へ持ってくると、手を付けるように促した。
指先からそっと浸せば、かじかんだ手へじわりと広がった熱に、体がぶるりと震える。
まるで焼けるように熱く感じる湯に、自分の手がいかに冷え切っていたのかを実感した。
指先はやがて融解していくように湯の温度に馴染み始め、浸された温もりは次第に心地いいものへと変わって行った。

「暫く浸けておけ、後で手当てもしてやるから」
「…ていうか、俺、ここにいていいの?」
「どうして?」
「え………だって、仕事中だろ?」

机上をちらりと見れば、書き掛けであろう原稿の束が散乱している。
それにさっき美咲の腕を握っていた秋彦の手には、インクが滲んでいた。
どんな時でも仕事中は書斎に入らないことが、ここに住み始めた時からの約束になっている。

「……そういえばそうだったな」
「続けるなら俺出てくよ、手当てなら自分でも出来るし」
「いや、いいよ」

あまりにあっさりしている返事が返ってきて、美咲は相手をまじまじと見返す。

「とにかく温めとけ、俺なら大丈夫だから」
「でも…」
「いいから」

するといきなり頭を撫でられて、突然のことに美咲はびくりと身を引いた。
くしゃりと掻き乱すように、しかし触れた大きな手は何処か優しく、いつもより暖かくて。
すっと離れて行った手につられるように、ちらりと顔を見上げれば、秋彦はとても穏やかな表情を浮かべている。
冷え切った体が溶かされていくような心地よさを感じながら、そこから視線を逸らすように、美咲はそっと目を伏せた。

原稿にペンを走らせる秋彦の表情は真剣そのものだった。
そういえば長い間一緒に暮らしてきたが、仕事をしている所を見るのはこれが初めてだ。
こんな近くに自分がいて集中出来るのかと思ったが、ペンは殆ど止まることなく、常に物語を紡ぎ続けている。
部屋の中を見回せば、そこまで広くない空間にはこれ以上無い程に、沢山の本で溢れ返っていた。
暖かいストーブと、室内を満たす紙の匂い、薬缶の音。
定期的な掃除以外で踏み入ることのない書斎は、何だか少し、居心地が悪い。

「何かさ、急にどうしたの」
タオルで丁寧に水気が拭きとられ、そっと美咲の手を取った秋彦はなるべく痛くならないようにと配慮するかのように、優しく薬を塗り込んでいく。
特に酷くひび割れていた所に差し掛かった時は、秋彦の指が優しく痛みをなぞった。
「何が?」
「いや、だって…」

少し前なら、見向きもしなかったのに。

「……やっぱり、兄ちゃんの預かりものだから?」
「孝浩?なんであいつが出てくるんだ」
訝しげな声に俯かせていた顔を上げる。秋彦は美咲の指先だけを見つめ、手際良く手当を続けていた。

「……別に」
「変な遠慮するな、俺なら大丈夫だって言っただろ?」

絆創膏を取り出すと、秋彦は美咲の指の至る所に貼って行く。
こんな風に誰かに手当をして貰うのは久しぶりで、その手の優しさが暖かくて、何処かくすぐったくて仕方が無かった。
最後の一枚が貼り終ってしまう瞬間が惜しくて、それとなく指を曲げたりしていると、あんまり動かすんじゃないと秋彦に怒られた。

「ていうか、こんなに細かく貼らなくてもいいんだけど…」
これじゃあ指が動かせねえよ、と悪態を吐けば、秋彦はクスリと笑った。
「よし、これで良いだろ。暫く貼っとけよ」

傷がしっかり絆創膏に覆われた美咲の両手を眺め、秋彦は満足そうに頷く。

「うん、ありがとう」
「あと、廊下掃除も今日は良いから、家主命令」
「……はい」

大人しく頷けば、秋彦はふっと笑みを浮かべる。
それは数年前まで、殆ど見た事の無かった笑顔だった。

「どうした」
「…ううん」

まじましと見返すと、秋彦は不思議そうに首を傾げる。
美咲はそんな彼の表情を見つめながら、間接が上手く動かないてのひらを、そっと握りしめた。

「変なの」
「何が?」
「……別に」

暖かい部屋の窓をちらつく雪、心なしか、さっきよりも勢いが強くなっている気がする。凍てつく空はどこまでも深く、きっと、まだまだ降り続けるのだろう。

その白が溶けるまで、冬の終りは、まだ遠い。





2012.10.9

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