肩口で響いた声に、胸が震える。
抱きしめられたのは久しぶりのことで、身を包み込んだ体温と強い腕の力に鼓動が跳ねた。突然肩へ寄りかかってきた体を支えきれず、二人はそのまま後ろのソファーへと倒れ込む。
いつもならここで美咲が逃げ出そうとじたばた必死にもがき始め、秋彦はそんな抵抗をとろけるような甘いキスで、いとも簡単に封じ込めてしまう。しかし今日に至ってはそのどちらも無かった。力の緩まない腕は体を抱きしめたまま、何もしてこようとはしない。美咲はそんな彼の胸の中に大人しくと収まったまま、天井を見つめながら深い溜息をついた。

「・・・つーか、疲れてんならちゃんと寝ろよ」

一体何日ぐらい寝ていないのか、さっきちらりと見えた目元は隈がひどかった。階段から下りてくる時の足取りもふらふらで、食事だって最近まともに食べてなかった筈だ。
原稿が上がったのはついさっきで、今回は今までの修羅場の中でもかなり酷いものだったように思う。こんな状態になってしまうのは殆ど、というか完全に自業自得だとは思うけれど、こんなにも衰弱しきった様子を見ると、胸がぎゅーっと締め付けられてしまう。
しかも仕事が終わったのだから休めばいいものを、相変わらず「美咲切れ」だのと訳の分からないことを言ってはこうやって美咲に構ってきたりするのだ。体力なんてもう残っていない筈なのに、縋るような腕の力強さだけは全く緩む気配が無かった。全く、人が折角心配してやってるってのに、と心の中で悪態を吐く。
時々、こうやって仕事明けにやつれている秋彦の姿を見ていると、この人はいつか壊れてしまうんじゃないだろうかという馬鹿馬鹿しい考えが浮かんだりする。仕事に詰まれば逃げようとしたり、所構わず押し倒してきたりと欲望と本能に忠実。自分が中心となって世界を回しているような横柄さ。普段はそんな所しか見ていないから忘れてしまいそうになるけれど、本当はびっくりするような優しさを持っていて、戸惑ってしまうぐらいに、繊細で。
ふと気がつくと、横からはいつの間にか規則正しい寝息が聞こえてくる。やはり余程疲れていたのか、秋彦はそのまま眠ってしまったようだった。

美咲は二度目の溜息を零すと、そっと秋彦の頭へ手を伸ばす。さらりと髪を撫でると、それは思いのほか柔らかく、感触はすり抜けた指の先で溶けてしまいそうだった。
不意に切なさが込み上げて、美咲は広い背へ腕を回してシャツを握りしめる。そして自分を抱き留めている存在をちゃんと確かめるように、肩口へそっと顔を埋めた。煙草と一緒に感じる秋彦の匂いに、すこしだけ安堵する。
相変わらず静かに眠り続けている秋彦は、ぴくりとも動くことなく美咲に覆い被さっている。ずしりと体に掛かった重みは、しかし決して嫌なものではなかった。

瞳を閉じると、密着した体から鼓動が流れ込んでくる。
少しも乱れることなく、きちんと一定に刻まれるリズムは聞いていて心地が良い。紡がれる優しい音に耳をすまして、心が満たされていくのを感じながら、誘われるようにして思考が睡魔の淵へ溶け込んでゆく。
そして音は、夢の中でもささやきのように、でも確かに響き続けている。


とくり、 とくり、




2010.08.03

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