「なんか、実感ないや」
「なにが?」

春先とは思えないほどに、風は冷たい。しかも日が落ちたとなれば気温は更に下がって、街灯がぽつぽつと灯る住宅街は真冬のような寒さに包まれていた。一応厚手のコートを羽織ってきたのだが、そんなものはお構いなしに風は服をすり抜けて身を貫く。

「もうウサギさんの家に来ることも、無いんだろうなーって思うと」

すぐには返事をしなかった。一瞬の沈黙の後にそうだな、と小さく呟いて、ポケットに入っていた煙草ケースを握りしめる。
美咲が大学を合格したことで、家庭教師としての役割は終わりを迎えた。あの絶望的な模試判定からよくここまで来たもんだな、と約半年間の日々を思い返す。時間は案外短いものだったが、その間には入試のことだけではなく、本当に色々なことがあった。それは美咲にも、秋彦にも。
ほぼ毎日当たり前のように美咲と顔を合わせていた日々だったが、それも今日まで。4月になれば大学も始まり、家に来るどころか今みたいに会うことも殆ど無くなるだろう。
否、もしかしたらもう二度と会わないかもしれない。自分たちはあくまで家庭教師とその生徒でしかなくて。それが終わった今、美咲が秋彦に会う理由など無いのだから。
煙草を買うついでに途中まで送っていくと申し出て、二人で家を出たのがついさっき。改めて合格の報告をするためだけに訪れた美咲を長々と引きとめていたせいで、辺りはもう真っ暗だった。それに加えてこの寒さ、本来なら自然と足早になるはずの歩みは、まるで一歩一歩を踏みしめるようにとてもゆっくりだった。
ただ、少しでも長く美咲と一緒にいたかった。だから少しでも進んでしまうのが勿体なくて。たった一秒ですら、過ぎてしまうのがもどかしくて。
歩調は無意識に速度を落としていた。
きっと、美咲も秋彦の歩調がいつもより遅いことに気がついていただろう。それなのに、どういうわけだか何も言わずペースを合わせてくれている。もしかしたら、美咲も少しは秋彦と別れることを名残惜しく思ってくれているのかもしれない。時々寒さに震える肩に申し訳ない気持ちを感じながらも、そのことが酷く嬉しくて、またどうしようもなく、切なくなって。薄暗い道を並んで歩く二人の間に、会話は殆ど無かった。

長いように思われた道のりはあっという間で、いつの間にか二人は美咲のアパートの前に着いていた。秋彦の方を向いて、美咲が苦笑する。

「なんだ、結局最後まで送ってもらっちゃったね」
「いいさ、今日は最後だし」

すると美咲は少しだけ驚いた顔をして、しかしすぐに顔を俯かせてしまった。寒いのか、僅かに頬が染まっている。

「ほら、早く入れ。風邪引いたらどうするんだ」
「大丈夫だよ、つーかウサギさんこそ早く帰れって」

美咲はそのまま背を向けてしまい、階段をずんずんと上っていく。すると入口に着いたところで不意にぴたりと立ち止まり、再びこちらを振り向いた。目線より高い位置に立つ美咲を見上げると、大きな瞳が見つめ返してくる。
「じゃあ、・・・・・・また」

語尾が小さくなっていたが、声は最後までしっかりと耳に届いた。そしてその言葉に、僅かに目を瞠目させる。

「・・・あぁ、また」

それからすぐに踵を返して中へと入っていた姿が奥に消えるまで、その背中をずっと見つめていた。

秋彦はたった今二人で来た道を歩みながら、美咲の声を頭の中で反芻させる。言葉に深い意味は無かったかもしれない。それでも、美咲にとっては単なる挨拶に過ぎなかったとしても。
ふと、いつの間にか口元が緩んでいたことに気がつく。まるでさっきまでの時を名残惜しむかのように、相変わらず歩調はゆっくりとしていた。


期待、してもいいのだろうか。











この後孝浩から転勤の話を聞かされて、美咲に同居を持ちかけようと電話したら風邪引いて死にそうな声してたから次の日見舞いに行ってact2.5に続く妄想。




2010.04.18

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