とん、とん、とん、 とて、とて。 とて 階段を上って行くと、それに続く拙くて、何処か危なっかしい、ちいさな足音。 そっと後ろを振り返れば、くりくりした大きな目がこちらをじっと見つめていた。 思わず足を止めると、小さな歩みも階段の中盤でひたりと止まる。そして目があった瞬間それまでのきょろきょろした無表情が、にぱっと笑顔を咲かせる。 にこー、とこちらに向けられた表情はとてもうれしそうに、ふわふわと幸せそうにこちらを見ていた。 「ああ、ダメだって、ウサギさん」 美咲がぱたぱたと慌ててこちらに駆け寄って来る。 そして小さな体は呆気なく、ひょいと抱き上げられてしまった。 「階段はまだ危ないからね、気を付けて」 「…気が付いたら後ろにいて」 「あはは、よっぽどパパが好きなんだね」 クスリと笑った美咲は腕の中にいる娘を覗き込む。 2人ぶんの視線を受ける当の本人は、まるで状況が掴めていないかのように、おや、と不思議そうな顔をしていた。 「パパはこれからお仕事だからね、また後でね」 美咲が優しく語りかければ、彼女はこくりと小さく頷いた。そして再びその大きな瞳をこちらへ向けてくる。 人差し指でそのふっくらと柔らかな頬をそっと撫でてやると、驚いたようにきゅっ、と目をつむる。そして次の瞬間とても気持ち良さそうに、顔をふにゃりと綻ばせた。 きゃっきゃっと喜ぶ幼い声が、鼓膜を撫でる。 頭を撫でてやれば、髪は相変わらずふわふわしていて、まるで羽毛のように柔らかかった。 「あの、ウサギさん…」 暫くして、美咲が少し困ったように問いかける。 「何だ」 「…そろそろ、仕事……しないの?」
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「秋彦に子供ってちょっと…つーか、かなり心配してたけど、杞憂だったみたいだな」 美咲の腕の中にいる小さな子供の頬をつつきながら、(彼女は少し嫌そうだ)井坂は感慨深げに呟く。 「どうなんですかね……可愛がってはいるみたいですけど、あまり抱っこしたがらないんですよ」 まだまだ小さな我が子はしかし最近、大好きな父親に甘える方法を覚えたらしく、短い手をいっぱいに伸ばしては「だっこ!」と彼の行く手を度々塞ぐ。 その度に秋彦は少し困ったように立ち止まり、よしよしと頭を撫でてやると、そそくさと呆気なく逃げてしまうのだ。しかし健気なことに、彼女は泣くことも、わめくこともせず、めげずに父親の背中をぱたぱたと追って行く。 そんな小さな鬼ごっこを、近頃何度も目撃していた。 「きっと恥ずかしいのよ。それにあの人、元から子供苦手だから、接し方が分からないのかも」 そこは美咲くんがフォローしてあげなきゃ、と横で相川が笑う。 べろべろばーと井坂があやしてやると、話題の中心となっていることなどつゆ知らず、彼女は楽しそうにきゃっきゃとはしゃいでいた。 「そういうものですかねえ……」 「うん、きっとそうよ。それにね」 「?」 「先生ったらこの前、あと十年位経ったら自分の子のエッセイが書けるだろうかって、マジ顔だったから」 「「えっ」」
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突然響き渡った泣き声に淹れていたコーヒーから顔を上げれば、娘が床に座り込み、大声を上げて泣いていた。 慌ててポットを置いて近寄れば、どうやら近くにあったおもちゃにつまずいてしまったらしい。秋彦の顔を見た瞬間、一瞬ひたりと泣き声が止んだかと思えば、再びわんわんと泣きだしてしまった。 いつものように頭を撫でてやろうとして、そこをぶつけたのだとしたら、彼女に痛い思いをさせてしまうと気が付く。救急箱を取りに行こうとしたが怪我のようなものは見当たらず、また今彼女から離れてしまうのも正解ではないような気がした。 普段なら何とかあやしてくれる筈の美咲は、運悪く買い物に出かけている。 自分一人で何とかしなければならないというのに、その時かなり気が動転していて、ただ狼狽するばかりだった。 「どこをぶつけたんだ」 訪ねてみるが、勿論答えは返って来ない。 相変わらず泣き続ける表情を見ながら、どうしたら彼女の涙を止めることが出来るのだろうとひたすら考えた。 そしてふと思い至り、秋彦は小さな体を引き寄せると、壊してしまわないように、優しく抱きしめる。 小さな手は縋るように秋彦の服を掴むと、肩に顔を押しつけて、またわんわんと泣き続けた。 しかしそれは痛みや驚きからではなく、安堵から溢れてくるかのような、そんな涙だった。 「大丈夫、大丈夫」 背中を優しく撫でながら、大丈夫と何度も繰り返す。やはり美咲のようにあやしてやることは出来ないが、それでも只、泣き止んでもらいたくて、泣きわめく背中を撫で続け、ひたすら大丈夫と繰り返した。 小さな手は泣き止むその瞬間まで、秋彦の服を力強く、掴み続けていた。 「うん、大丈夫みたいだね」 泣き続けいたせいで目は晴れてしまっていたが、美咲によしよしと頭を撫でられる娘は先程とは打って変わってけろりとしていた。痛くて泣いていたわけではなく、単に驚いてしまったらしい。 「でもウサギさん、よく泣き止ますことが出来たね、一体どうしたの?」 「……まあ、それは」 色々と、と言葉を濁すと、書斎へ戻ろうとする。 そういえば仕事を抱えていたことをすっかり失念していた。冷め切ったコーヒーを手にすると、二階へと向かう。すると背後から、ぎゅっとズボンの裾を掴む力。 恐る恐る振り返ると、ぎゅっと足に絡みつく存在。後ろから見ていた美咲と目が合うと、次の瞬間二人で吹き出していた。 「新しい甘え方を覚えたみたい」
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「娘が……俺のことを四六時中追っかけ回すんだ」 なあ、どうしたらいいと思う?と秋彦は何処かわざとらしい、物憂げな吐息をつきながら、淡々と語る。 「……それは――――」 やや乱暴に本を棚へ仕舞い、弘樹は悠々とソファーへ腰掛ける幼馴染を睨みつける。 「娘自慢だろ、ただの」 「……俺は本気で悩んでいるんだが」 「本気で親バカアピールしてんじゃねえよ」 「いや、本当に困ってるんだ……でも実を言うとその振り返った瞬間見せる笑顔が壊滅的に可愛くて」 「帰れよ」
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ぽかぽかと暖かくて、うららかな陽気の流れる午後。 美咲、コーヒー、呼びかけても反応が無く、訝しげに思いながらリビングへ降りれば、ベランダからふわりと舞い込むそよ風にカーテンが優しく揺れていた。 ふとソファーに視線を向ければ、背もたれからちょこんと覗く頭と、傾いた鈴木さん。正面に周りこめば、そこでは三人が気持ちよさそうに、仲良く昼寝を満喫しているところだった。 行儀よく隣合った美咲と鈴木さん。 その真ん中にちょこんと座るのは、美咲とよく似た顔をした、小さないとしい愛娘。日だまりの中でふんわりした光を受けながら、そこだけがまるで区切られたかのように、穏やかな時間が流れていた。 その小さな手を、そっと握りしめてみる。 自分のものとは指の長さも、手のひらの広さも、何もかも違うそれは、呆気なく包み込んでしまえるほどの大きさしかないのに、とても熱くて、柔らかい。 それはスプーンや裾を掴み、原稿に落書きをして、抱きあげられることを求めたりする、好奇心たっぷりの、幼くて沢山の力を持った、強い手だった。 すっと離れて行こうとすれば、きゅ、と引き留められる感触。 見ればその手はしっかりと、秋彦の人差し指を包み込んでいた。 ふう、と吐息を零して。小さな額をそっと撫でる。 そして床に腰を落ち着けると、美咲の膝に頭を預ける。美咲は僅かに身じろぎして、しかし起きる気配は無かった。 ふわりとした風が空間を包み込む。 やがて日だまりに溶かされてゆくような静かさで、秋彦は瞳を閉じた。 HUGT Fin 2011.Jun26 |