おはよう
朝と昼のごはん、作っといたから
後でちゃんと食べてね
仕事がんばって、無理すんなよ

いってきます












メールがちゃんと送信されたことを確認してからも、少しの間待受画面をじっと見つめる。
そんなすぐに返って来る筈がないと苦笑して、携帯をポケットにしまうと丁度やってきたエレベーターに乗り込んだ。
会社のエレベーターの壁には、あらゆる種類の書籍の販促ポスターが一面に張り巡らされている。大小色合いも様々なそれらの中に、一際目立つ所貼られていた一枚にふと目が止まる。 そこには大きな字で本のタイトルとその概要、そして慣れ親しんだ人物の名前が、堂々と印刷されていた。
最新刊、と銘打たれていたが、ポスターの具合からすると貼られてから少し時間が経っているようだった。普段急ぐ時は階段ばかりを使っていたし、乗っていてもポスターなど気にも留めなかったため、その存在に気が付いたのは本当に偶然のことだった。
紙面をそっと指でなぞって、僅かに違和感を覚える。しかしそれは曖昧な形でしかなく、その正体が何かを掴むことが出来ない。不意に焦燥のような、もどかしい気持ちが込み上げてポスターから目を逸らすと、丁度目的の階層へと着いたところだった。
エレベーターを降りると、音も無く自動ドアの扉が閉まる。携帯電話を取り出そうとしたところで、不意にさっきの違和感の正体に気が付いた。
導き出された回答に、乗っていたエレベーターを振り返る。

自分はその本の存在を、全く知らなかったのだ。







Sarabande







編集部に足を踏み入れると、そこには既に吉原が出勤していた。彼は何やら真剣な表情でパソコンの画面と睨み合っていて、今日は随分と気合いが入っている様子だ。
そんな吉原の邪魔をしないように静かに進んで行くと、しかし彼はすぐにこちらに気が付いて顔を上げる。そこに浮かんでいるのは先程までの気難しい表情ではなく、いつも通りの気さくな笑顔だった。

「おはよう高橋!」
「お、はよ・・・どうしたの?何かテンション高いね」
「だってそりゃあ――っておい、大丈夫か?」
「へ・・・なにが?」
「何か、酷い顔してるけど」
「・・・・・・・・・」

吉原は心配そうに顔を覗き込んできて、彼のアップが目の前に映しだされる。美咲はその視線から逃れるようにして顔を背けると、自分のデスクへと向かう。

「そうかな、昨日遅かったせいかも」
「・・・まあいいけど、ってそれよりさ!」

口を開いた吉原は相変わらず興奮気味な様子で、美咲はそんな彼に訝しげな視線を送る。

「一体どうしたんだよ、さっきから」
「まあまあ落ち着けって、まじやばいから」
「・・・いや、お前が落ち着けよ、それで?」
「実はさ、重版が掛かりそうなんだ!」
「え、まじで?」
「さっき編集長と営業が話してるのを聞いたんだよ。まだ正式じゃないけど、あの様子からじゃ確定だな」
「すげーじゃん、おめでとう!」

重版が掛るのは、確か彼が作家を担当するようになってから初めてのことだった筈だ。自分の本は未だ一度も掛ったことが無いが、友人としてはとても嬉しい知らせだった。純粋に祝いの言葉を口にすると、しかし吉原は違う違う、と少し焦ったように否定する。

「俺の話じゃなくて、お前だよ」
「は・・・?」
「この間新刊出ただろ?あれ、すっげー好評みたいでさ」

にこにこと笑う吉原をぽかんと見上げ、言われた言葉を頭の中で反芻させる。 そして一呼吸の間が空いた後、ようやくその言葉の意味を理解した。

「え、えぇっ!?」

ここが会社だということも忘れて、美咲は思わず声を上げる。何人かがこちらを訝しげに振り返ってことで口を押さえ、しかし突然告げられた知らせに心臓がばくばくと忙しなく鳴り響いた。

「やったじゃん!今回の面白いって俺も思ってたけどさ、まじすげーって!」

呆然としている美咲の肩を、吉原がばしばしと叩く。そのうち漸く思い出したかのように、たまらない喜びが心の奥底から込み上げてきて、しっかりと口を抑えておかなければ興奮にまた騒ぎ出してしまいそうだった。
自分が作家を担当するようになってからコミックスは既にもう何冊か出していて、以前からそれなりに売上は伸びていた。でもその中で、重版が掛ったことなど今までに一度も無くて。しかも今回の本は近い時期に連載の締め切りと重なっていて、修羅場の中奮闘して、何とか出すことが出来た一冊でもあったのだ。
編集になってまだまだ短いが、今まで自分なりに一生懸命やってきたつもりだ。漫画が売れるのは勿論作品の面白さの甲斐あってのことだが、美咲も担当として作家を叱咤したり必死に宥めすしたり、印刷所と会社の間を掛けずり回ったり。そして何よりも本当に面白いものが出来るようにと、相手の顔色を窺いつつも、打ち合わせで妥協したことはなく、いつも真剣に取り組んできた。
勿論それで作家と意見がぶつかってしまったことも少なくない。そのせいで数日の間連絡が取れなくなって編集長に大目玉を食らい、本気で焦ったこともある。 そんなあらゆる場面で壮絶だった過程を得て、しかしその結果得たものが今回の重版であるならば。美咲にとってそれは何よりも変えがたく、今までの苦労など無かったも同然となるものであった。

一刻も早く、早く伝えなきゃ、連絡をしないと。
美咲は慌てて携帯電話を取り出す。
そしていつものように、押し慣れた短縮ダイヤルに登録されている、一番最初の番号を呼び出そうとして、―――――――――再び、携帯を閉じた。

「どうした?」

美咲の行動を不審に思ったのか、吉原は訝しげに問いかけてくる。

「あ、いや・・・・・・早く、」

早く先生に連絡してやらないとな。
美咲の代わりに、吉原はそう言ってにこりと笑った。

「うん、そうだね」

早く、おしえてあげないと。
美咲も笑い返すと、もう一度携帯を開いて、作家へと電話を掛ける。留守電に繋がったため、メッセージと折り返し連絡が欲しいとの旨を伝えて、すぐに電話を切った。

「しっかし本当、お前ついにやったなー、同期としては俺もすごく嬉しいよ」
「うん、ありがとう。でもそんなに喜ばれると、何か照れる」
「何言ってんだよ全く!よし、せっかくだしお前の重版祝いってことで、今日こそ呑みに行こうぜ」
「相変わらず好きだなぁ」
「何だよ、お前殆ど俺に付き合ったこと無いじゃねーか。それに昨日もドタキャンされたから、今日はそのツケってことで」
「え、それは昼メシ奢りでチャラになったんじゃ・・・」
「まあ細かいことは気にすんなって、今日はぜってー逃がさねぇからな」

そう言って吉原は、カラカラと軽快に笑っている。美咲は半ば呆然としながらも、しかし決して嫌な気分ではなかった。
確かに昨日のこともあるし、折角祝ってくれると言っているのだ。今日は彼に付き合うべきであろう。家へは昨日帰ったばかりだから、食事もちゃんと作り置きしてあるし、家事もそんなに溜まっていない。明日も仕事だからと断って、少し早めに切り上げれば何とかなるだろう。
それに何より、こうやって美咲のことをまるで自分のことのように喜んでくれる彼の様子が、嬉しくてたまらなかったのだ。

「うん、それじゃあ・・・」
「――いい加減諦めろよ吉原、何度言ったって一緒だ」

しかしその時だった。
突然響いた第三者の声に、吉原と美咲がそちらを振り返る。
そこには口元に笑みを浮かべながらも僅かに眉をひそめた川嶋が立っていて、鋭い視線が美咲を睨みつけていた。







Image inedites Sarabande (忘れられた映像より サラバンド/C.Debussy)


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