Gymnopedie.2




「今日は本当にありがとう」


冷たい夜風が、アルコールで火照った体に心地良い。
鼓膜に柔らかく響く声と同じくらいに優しい孝浩の笑顔。今日はほんのりと朱色に染まったそれは昔から変わらない、見ている相手の心を包み込むような温かい表情だった。
孝浩はいつも笑っている。他愛のない話をしている時には愛しく、その胸に悲しみを抱いている時は力無く。秋彦へ一番にしたかったという結婚の報告をした時は、とても残酷に。夜の光に浮かぶ目の前のそれは、今までに見てきたどんな時よりも、幸せそうなものだった。

「ウサギには本当に世話になりっぱなしだな」
「これぐらい、大したことじゃない」
「そんなことないよ」

背中を覆っているのは、すっかり熟睡している美咲の温もり。多忙でなかなか時間の合わない三人がようやく集った、少しだけ遅い就職祝い。二人を連れ出したのは秋彦だったが、この三人が並んで歩く構図はとても不思議でしょうがなかった。美咲は相変わらず酒に弱いらしく、本日の主役であるにも関わらず、すぐに酔いつぶれてしまい、今日は早々にお開きとなった。一応申し訳程度にコートを羽織らせているものの、寒くはないだろうかと心配になる。肩にかかる重みは、とても愛しい。
その時、さっきまではピクリともしなかった美咲が突然、もぞもぞと動き始めた。

目を覚ましたのかと思い、顔をちらりと覗き込んでみれば、しかしその瞳は閉じられたままだ。僅かに唸りながら肩口へ顔をすり寄せたり、秋彦の服を握りしめたり、どうやら寝心地のいい体勢を探しているらしい。
やがて定位置を見つけたらしく、動き出した時と同じくらい突然にぴたりと動きを止めると、再び規則的な寝息を立て始める。秋彦は苦笑を洩らすと、なるべく揺らさないよう慎重に、美咲の体をそっと抱え直した。

「どうした?」

クスリと笑う気配を感じてそちらに目を向けると、孝浩が美咲の寝顔を見つめていた。

「いや、なんか幸せそうだなと思って」

そう口にした彼の顔が幸せそうで、慈愛の滲む瞳の色は、美咲が大切でどうしようもないと語っているようだった。口元が僅かに緩んだのを感じて、そうだな、と小さく呟く。酔いが醒めてきたのか、頬を撫ぜた風が少しだけ冷たい。

「というか、二人ともかな」
「・・・俺も?」
「そう、ずっと前から思ってたけど、何だか二人って一緒にいて、すごく楽しそうなんだよ」

秋彦は何も言わず、ただ孝浩の顔を見つめる。

「正直、同居するって聞いた時は驚いたんだ、お互い性格がまるで違うから上手くやってけるのかなって。でも今年でもう4年目だろ?それが不思議でしょうがなくってさ」

そう言って孝浩は苦笑を洩らす。確かに秋彦と美咲の性格は正反対で、実際、出会った当初の互いの第一印象は最悪だった。傍目にも到底気が合うとは思えない。それは二人の性質を熟知している孝浩だからそこ、不思議で仕方が無いのだろう。

「今日だってお前、沢山笑ってたし」
「・・・それはいつもと変わり無いんじゃないか?」

脳裏に浮かぶのは、さきほどまでいた居酒屋でのやりとり。話題の大半は兄弟の昔話で、孝浩と秋彦の間に挟まれて、美咲は二人に良いように遊ばれていた。羞恥とアルコールで顔を真っ赤にして騒ぐ美咲と、それでも揶揄かうのを止めない大人気ない大人たち。孝浩は声を立てて笑い、秋彦も確かに沢山笑っていた。
しかし、今まで孝浩と二人でいた時だって、秋彦はいつも笑っていた。それこそ、想いを寄せていた頃は他の誰と過ごしている時よりも、笑顔は絶えなかった筈だ。

ずっと大切で、愛しくてたまらなかった孝浩の前では。

「それがさ、何か違うんだよな」

上手く言えないけれど、と首をかしげる孝浩。秋彦はそんな彼の顔をじっと見つめながら、言葉の続きを待っていた。無意識に歩調を緩めていることには、気がつかない。

「本当に幸せそうっていうか、こんな嬉しそうに笑う奴だったっけ?とか思ってさ」

すっかり二人に弄り倒され、不貞腐れてしまった美咲がテーブルに突っ伏して暫く経っても起き上がる気配が無い。孝浩がいくら肩を揺すっても反応は無く、その拍子に腕から覗いたのは、さっきまで眉を吊り上げ、必死に抗議や弁解を繰り返し唱えていた名残など欠片も感じない、気の抜け切った寝顔で。

「とにかく、ウサギのあんな顔初めて見たから、ちょっとびっくりしちゃって」

―――その瞬間、ふっと込み上げた笑み。
あまりに自然と浮かんだそれは、孝浩にすら見せたことが無かった表情。

「・・・楽しいよ」

突然口を開いたせいか、孝浩はきょとんとした顔を浮かべる。

「美咲と一緒にいて、すごく幸せ」

純粋に、美咲を好きでいること。それがただ、嬉しくてたまらない。
長い間美咲と共に過ごしてきて、沢山の感情を知った。失ってばかりだった手のひらが、沢山のものを手に入れた。
自分には無縁だと思っていた幸せという言葉の温もり。それがいつの間にか、こうして背中合わせの距離に存在していて、当たり前のように寄り添っている。それは全て、美咲が秋彦に与えてくれたものだ。この愛しい気持ちも、この笑顔も。
今までどんな風に笑っていたのかなんて、もう思い出せない。

「そっか」

そう言って再び笑った彼の表情は、やはり優しいものだった。二人って、本当に仲が良いんだな、と相変わらず鈍い彼は、自らが口にした言葉の意味には気が付かない。

「でも、そんな二人の同居生活ももうすぐ終わりか・・・」

ふっと、足が止まる。
少し先を進んだ孝浩がこちらを訝るように振り返った。

「ウサギ?」
「・・・いや、なんでもない」

軽くかぶりを振って見せると、再び歩みを進める。踏み出した最初の一歩が、僅かにぎこちなさを見せた。
美咲がいなくなったら、寂しくなるんじゃないか?とさっきと変らぬ口調で孝浩が問いかけてくる。その言葉には答えない。
不意に、背に抱えている美咲の存在を強く意識した。沢山のものを失ってきた手のひら、沢山のものを、手に入れた手のひら。そこからまた、何かが零れ落ちて行こうとしている。

それでも――――――、


「孝浩」

自分でも驚くほど、しっかりした声だった。
秋彦は真っ直ぐと前を見つめたまま、美咲を支える腕へ僅かに力を込める。

「今度、お前に話があるんだ 」





それは、遠い昔の懐かしい記憶の欠片。
夜道に響く二人分の足音、身を裂く風の冷たさ、背中越しの優しい温もり。あの日交わした言葉も全部、寒空の記憶は今も鮮明に残っている。
約束の中に込められていたのは失う覚悟と、失わないための強い決意。その瞬間に恐怖が無かったと言ったら嘘になるだろう。失うことには慣れていても、その傷に耐える術を持ってはいない。
抉られるような苦しみは胸の奥底へ絡みつき、時が経つにつれて、癒えるどころか更に疼きは増してゆく。ただがむしゃらにもがいても、そこからは決して逃れられず、少しずつ痛みの中へと溺れて行くのだ。
いつか絶望に息絶えてしまうまで、どこまでも深く、 深く。

それでも躊躇いなく口に出来たのは、美咲がいたからだった。
何かを失ってしまった時、傷ついてしまうことからはきっと逃れられないだろう。それでも、隣に美咲がいてくれるなら例え傷ついてしまっても乗り越えて行けると思った。美咲が寄り添ってくれるのなら強くなれると、そう確信していた。

しかし時々、思うことがあるのだ。
あの夜、この手から零れ落ちて行ったものは、本当に失ったものは、何だったのだろうと。

鳴らない電話を見つめる美咲の視線。表情を見ることは出来ない後ろ姿。そこにどんな感情が存在しているのかを秋彦は知らない。しかしその肩を無理やり振り向かせて確かめる勇気は持っていなかった。

―――それを見てしまった時、もしもそこに本当の絶望が待っていたのだとしたら。

答えを切望しているくせに、知ってしまうことを何よりも恐れている。考える度に不安は募り、その悪循環を繰り返すばかりで、いつまでも答えは導き出せないまま。

そしてまた、思考を疑問の中へと投じてゆく。
求めることに恐怖しながら、ただ闇雲に、いつまでも同じ場所を彷徨っている。


本当に失ったものは、何だろう。













・・・―――――瞼の裏に感じるのは、柔らかい光。

仄暗い闇の淵から前触れ無く浮かび上がった思考は、ふわふわとまどろみの中を漂う。さっきまで夢を見ていた筈なのに、その内容は闇の中に沈んだまま、もう思い出すことは出来ない。覚醒しきらない意識の中でゆっくりと瞼を開けば、飛行機や国旗の下がった見慣れた天井が、真っ白な光と共に視界を染める。
カーテンの隙間から零れる朝の陽差し、強すぎる光に寝ぼけ眼の瞳を眇める。そのまま暫くの間、視線はうとうとと宙を彷徨していたが、やがて再び訪れた睡魔の誘いに、思考が眠りの淵へ沈んでゆくのを感じた。
寝返りを打ちながら、傍らの毛布を引き寄せて、抱き込む。すっと瞳を閉じれば、朝日は少しずつ闇の中へ溶け出していく。


そこに存在した温もりはもう、残ってはいなかった。







Gymnopedie.2  (3つのジムノペディ2/E.Satie)


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