Caresse 改札口を抜ける瞬間、人がぎゅうぎゅうに詰まって膨れ上がった駅から吐き出される様を想像する。それはまるで風船から勢いよく抜けて行く空気のようで、出口には沢山の人が我先にといわんばかりに密集し、一歩外へ出てしまえば皆足早に四方へと散っていくのだ。そんな人の波に呑まれたり流されたりを繰り返しながら、ようやく駅から這い出すことの出来た体を包むのはいつも開放感だった。 「大丈夫?」 出口から少し歩いたところでようやく背後を振り返り、後ろに秋彦がいることを確認する。あんなに降っていた雨はいつの間にか止んでいて、夜は街のざわめきとネオンの光に彩られている。湿気の混じる夜風は、雨の匂いがした。 「・・・もう二度と乗らない」 「言っとくけど、乗るっつったのはウサギさんだからな」 全く予想通りの不機嫌顔は、一歩でも早く駅から、というより人混みから離れたいといわんばかりに先へスタスタと進んで行ってしまう。美咲はげんなりと肩を竦めながらそんな背中を追いかけて行く。途中で買い込んだ食材の詰まったビニール袋は、歩調に合わせてかさかさと弾んだ。 編集部へと戻った後、やはり美咲を待っていた吉原へ事情も曖昧に、一緒に行けないことをただひたすら謝り倒すと、再び下で待たせていた秋彦の所へ戻って行った。結局のところ、今日もまた断ってしまったことになる。吉原には散々文句を言われた揚句、何故か明日の昼食を奢る約束まで取り付けられてしまった。しかし理由が不十分な美咲を笑って許してくれたのだから彼は本当に良い奴だ。拝むように謝罪を繰り返しながら、何度心が軋んだことか。そのくせ今こうして秋彦と肩を並べ、胸を満たすのは隣を歩く存在の気配ばかりで、罪悪感など殆ど消えかかっている自分は大概酷い人間だと思う。編集部に川嶋の姿は見当たらなかった。 タクシーで来たという秋彦は、何故か電車で帰ると言って聞かなかった。人混みを嫌う彼に配慮して美咲は渋ってみたものの、秋彦は絶対に譲ろうとしなかったのだ。結局帰宅ラッシュに巻き込まれ、満員電車に揺られながら最寄り駅までたどり着いたというわけだ。 ちら、と隣の様子をこっそり窺う。さっきよりは機嫌が直ったようで、表情は少し和らいだように思う。街の喧騒から遠ざかるにつれて、二人の足音は次第に鮮明になっていった。一言、二言と紡いでは、途切れた会話が夜の静寂に満たされる。しかしそれは決して嫌な沈黙ではなかった。 「少し、期待したんだ」 街灯の光に二人分の影が寄り添い、消えていく。突然口を開いた秋彦の方を向くと、彼は相変わらず前だけを見て歩いていた。しかしその表情はいつの間にか、穏やかなものに変わっている。 「何を?」 「丸川に行けば、会えるんじゃないかって」 言葉はやけに甘く、そして優しい響きを持っていた。頭をかけ巡った痺れを誤魔化すように、ふうんといかにも興味が無さそうに頷く。心臓が跳ねたせいか言葉は一瞬喉元で詰まってしまい、声は僅かに裏返っていた。 「まさかあんなところで出会うなんて思ってなかったけどな」 「俺だってびっくりだよ、つーかあそこにいて仕事は大丈夫なのかよ」 じろりと秋彦を睨めつけてやれば、二人の間に一瞬、沈黙が走る。顔が僅かに逸らされたのは見逃さない。 「まあ・・・そこそこ」 「うそつけ」 溜息を吐きながらぶつぶつと文句を言いつつも、久しぶりの相変わらずなやり取りはとても心地が良いものだった。ビニール袋と一緒に、歩調も弾む。 しかしその時、美咲の中にある疑念が浮かび上がって来る。 「あ、まさか電車で帰りたいって言ったのも、帰る時間遅らせたいからとかじゃねーだろうな」 珍しいと思ったらそういうことか。疑るような視線を向けると、秋彦はまさか、と言って噴出している。 「そんなんじゃない、ただ・・・」 不意に、秋彦は美咲の手に指を絡めてくる。唐突なことに驚いた美咲は慌てて振りほどこうとしたが、それはぎゅっと手を強い力で握られたことによって阻止されてしまった。 「う、ウサギさ・・・ここ外――」 「こうしたかったんだ」 「へ?」 ぱちりと目を見開くと、飛び込んできたのはこちらを向いた秋彦の優しい表情。無機質な街灯の青白い光の中で、それはとても穏やかなものだった。 「こうやって美咲と一緒に、歩きたかった」 何本目かの街灯が遠ざかっていく。二人の歩む道は再び薄暗闇に包まれて、でも今はそれが本当に有難かった。きっとこの青白い光でだって、この顔の火照りはばれてしまう。 なんだそれ ぷいと視線を逸らすと、秋彦がくつりと笑いを零す気配が伝わってくる。 どきどきしているのが悔しくて、繋がれたままの手に思いっきり力を込めてやった。 暗闇に沈んだ世界を、瞳は映さない。 朧げな輪郭を頼りにそっと両手で頬を包み込むと、そこから相手の鼓動と体温が流れ込んでくる。すぐにでも掻き乱してやりたい衝動に駆られ、しかし触れた肌が僅かに強張っていることに気がついた。情動を抑えながら安心させるように、顔のあちこちへゆっくりと、口付けを落としていく。 額に、瞼に、頬に。そして震える吐息と一緒に呑みこんだ唇は、酷く甘い味がした。 「緊張してる?」 「!・・・そんなんじゃ、――ッ」 揶揄する響きを含んで耳元に囁くと、返って来たのはいつもより弱々しくて、頼りない言葉。鎖骨の辺りに唇を這わせると声は途中で途切れ、喉の奥から掠れた嬌声が上がった。体を震わせた美咲は、秋彦から離れようと身を引こうとする。しかしそんな体をすかさず腕が捕え、引き寄せた瞬間に再び口を塞ぐと深く、深く貪った。 さっきのような優しさは微塵も残っていない。ぐいぐいと体を引き離そうとする腕には無視を決め込んで口腔をかき回し、逃げ回る美咲の舌を絡め取ると痛いくらいに吸い上げる。次第に力の抜けて行く体を抱き留め、そっとベッドに横たえると逃がさないといわんばかりにその上から覆い被さる。カーテンから零れた青白い光がぼんやりと照らす、瞳に涙を浮かべた表情はとても悔しそうなものだった。 白い肌を味わいながらシャツの隙間からそっと手を滑らせていくと、美咲の口からは再び甘い声が吐息混じりに零れる。逃げ道は無いと察したのか、抵抗してくる気配は無い。その時、ぎゅう、と秋彦のシャツを美咲が強く握りしめてきて、思いがけない行動に一瞬、息を呑んだ。 「あんまり可愛いことするな、抑えが利かなくなる」 「は?・・・なんだ、それ」 カッ、と頬を染めながら目を見開いた美咲は、しかし何について言われたのかを分かっていないようで、相変わらず手の力は緩まない。どうやら無意識の行動だったらしい。そんな美咲が苛立たしくて、秋彦はシャツを一気にたくし上げると、慌てて引き戻そうとする手を抑えつけ、露わになった肌のあちこちへ印を落していく。翻弄しているのはこちらだというのに、こんな些細なことで自分の心はこんなにも大きく揺さぶられる。 恨めしげに秋彦を睨む瞳は知らないだろう。 その何度も何度も名前を呼ぶ甘い声が、無意識な仕草が、どれだけ目の前の相手を煽り立てているのかを。 「――サギさ、っ・・・」 余裕が無いのは、いつも自分の方だ。 何度となく口にした罵倒は全て甘いキスに呑みこまれ、言葉にならない嬌声の中に溶けて行った。 相変わらず冷たくて大きな手のひらが、肌の上をそっと、滑ってゆく。その丁寧さにはまるで、ふとした拍子に壊してしまわないよう恐怖しているような、また触れた存在を慈しむような優しさが込められていた。 指先から流れ込んでくるのは、冷たい感触とは対照的な、温かい恋情。ゆっくりと指が通り過ぎた所から、肌はぞくぞくと粟立ち、次第に熱を帯びていく。 暗闇の中で、相手の表情は見て取れない。でも、美咲は知っているのだ。 秋彦の目にも、美咲の顔は朧げにしか映らないだろう。それでもこの人はいつだって、愛おしそうな眼差しを向けてくる。それはこっちが恥ずかしくなるくらいに、馬鹿みたいに真っ直ぐで。 不意に、秋彦の顔が近付いてくる。見えていないと分かっていても、美咲はぎゅっと瞳と閉じた。 存在をしっかりと確かめるような、しかし何処か余裕の無い愛撫の優しさ。 震える体を貪り、耳元で愛を囁く唇。 触れられたのは本当に久しぶりのことで、緊張に強張る肌は、些細な触れ合いにすら敏感に反応してしまう。自分の意思とは無関係に跳ねる身体に辟易としながら、しかし心は深い安堵感に満たされるのだ。 あぁ、この人はまだ、俺を求めてくれているのだと。 あ―――――、 じりじりと体内へ浸食してくる秋彦の熱。繋がりは次第に深くなり、ゆっくりと内側を満たしていく。やがて律動は激しさを増していき、美咲の口からは途切れ途切れの嬌声が零れる。すぐ傍に寄り添う秋彦はクスリと笑うと、頼りなく揺れる体を引き寄せるようにして抱きしめた。耳元で紡がれる掠れた吐息が、鼓動に震える胸をどうしようもなく、焦がしていく。 ――・・・サギさん、 ウサギさん、 ウサギさん すきだよ、あいしてる。 なかなか伝えることが出来ない言葉の代わりに、何度も何度も、名前を呼んだ。そこに込められているのは、陳腐な愛の告白よりも、もっともっと、特別な響き。 想いの全てを言葉にして伝えることは、きっと出来ないのだろう。全てを口にするには、この想いはあまりにも大きく、そして愛おしすぎて。 だからせめて、口にした言葉の中に、ありったけの気持ちを込める。そうやって、ほんの少しだっていい、ほんのひとかけらの想いでも、あなたに伝わってくれるように。 与えられる熱を必死に受け止めながら、その広い肩口に顔を埋め、しっかりと抱きしめてくれる腕に身を委ねた。 やがて共に絶頂を迎え、広がった熱が体内を満たしていく。 重なり合った汗ばむ肌から伝わる鼓動。達した後でも、この人の温もりを手放したくなくて、その体に腕を回す。そんなに力を込めてはいなかったけれど、秋彦も美咲の体を強く抱きしめたまま、なかなか離れて行く気配を見せない。 「・・・ウサギさん?」 そのまま全く動かない彼を不審に思って、声をかけてみる。しかし秋彦は何も応えない。 ねえ、ウサギさん、ウサギさんてば。 背中をとんとん、と叩いてみる。肩口にはまだ整いきらない吐息を感じて、腕の力も全く緩む気配が無い。 秋彦はやはり、何も応えようとはしなかった。 Caresse (愛撫/E.Satie) |