Gymnopedie.1




ひやりと冷たい床とは対象的に、窓から注ぐ柔らかな朝日はとても暖かい。ぽかぽかと穏やかな日差しを浴びながらキッチンで朝食の準備をしていると、二階のドアが開く音がした。炒め物をしていた最中にも関わらず反射的に視線を向けると、鈴木さんを抱えたまだ夢から冷め切っていない顔をしている秋彦がのろのろと階段を下ってきていた。美咲の存在に気がつくと彼は一瞬立ち止まり、表情を綻ばせる。そんな表情には気がつかなかった振りをして、美咲は視線を目前のフライパンへ戻す。途端に落ち着きを無くした鼓動と心は、手つきをぎこちなくさせた。

「おはよう」
「・・・おはよう、早いね」

テーブルへ皿を並べながら、鈴木さんを椅子に座らせている彼と朝の挨拶を交わす。普段は大抵7時ごろに起きてくる秋彦だが、今はまだ随分と早い時間だ。しかも寝起きが最悪な彼にしては、朝だというのに随分と機嫌が良さそうで。

「音がしたから」
「えっごめん、うるさかった?」
「いや、その逆」
「はぁ?」
「美咲がいるんだなと思ったら、嬉しくなって」
「・・・・・・・・・何だそれ」

呆れたようにいいながらも、告げられた言葉にどぎまぎしてしまう。以前のように狼狽しなくはなったが(ここは自分でもなかなかの成長ぶりだと思う)、やはり彼の言葉に心臓が跳ねてしまうのは昔から変わらない。それに、実際のところ美咲自身も、秋彦が傍にいることに内心では嬉しさを感じていたから。

(んなこと、本人には絶対言ってやんないけど。)

そしてそんなところも、昔と変わってない。
学生時代には毎日のように共にしていた食卓も、今では殆ど無くなってしまっていて。ただこうして一緒に食事をするだけだというのに、久しぶりというだけでそれはとても特別なことのように思えた。そう、今日は久しぶりに二人で過ごす、穏やかな朝。
その時、ジリリリと黒電話の音が朝の空気に響き渡る。その音に全身へ緊張が一気に走り、座ろうと椅子を引いていた手をぴたりと止めた。

「俺、出る」

そうして少し足早に呼び鈴の方へ近づいていく。受話器を取る手が、やけに緊張していた。

「はい、宇佐・・・・・・あぁ、相川さん」

相手は秋彦の担当者である相川だった、出た瞬間は明るかった声色が一気に落ちてしまう。最近はずっとこの調子だ、いい加減相手に失礼だとは思うが、毎回落胆ぶりを上手く隠すことは出来なかった。電話の受け答えをしながら、内心で大きな溜息をつく。

「あぁ、はい今変わります・・・ウサギさーん、相川さんだよ」











出会った頃から孝浩は、弟の話ばかりしている奴だった。
内容には興味が無かったためいつも聞き流していたが、話す様子からは彼がその弟のことをどれだけ大切に思っているのかが伝わってきた。時には喧嘩して悩んだり、憤ったりしていることもあったが、孝浩の笑顔を作り出しているのはいつも弟の話題だったように思う。そして自分は、そんな孝浩の幸せそうな笑顔が好きだった。
自分がその笑顔を消してしまうことだけは絶対にしたくない、してはいけない。だから感情を押し隠したまま何年も付き合ってきたし、結局思いは告げられないまま、孝浩は結婚した。気持ちを押し通せないことよりも、今までの関係性が崩れてしまうことの方が、何よりも耐え難いことだったのだ。
それなのに、今からその大好きだった笑顔を壊してしまうかもしれない自分自身に、少しも抵抗や恐怖を感じてはいなかった。



久しぶりに会った孝浩の顔はやなり笑っていて、最愛の弟と楽しそうに互いの近況を交わしていた。しかし、その様子はいつもと少しだけ違う。屈託なく笑う兄に対して、美咲の表情はどこまでも引きつっていた。ソファーで寛ぎながら、そんな二人の様子を見つめる。前に覚悟はしたと宣言したことはあったが、それにしても心はやけに静かだった。

しかしそれからどんな風に、何を話したのか、その内容が上手く思い出せない。気がつけば室内にさきほどまでの穏やかな空気は一変していて、この三人の間には漂ったことが無いような、重く押しつぶされたようなものになっていた。テーブルに落とした視線が自分の前に用意されたマグカップを映す。すっかり冷め切ったコーヒーには、まだ一度も手を付けてはいなかった。普段あっという間に過ぎていく時間が、この時は本当に、永遠に続くような錯覚を生み出すほどに、長く長く感じられた。


孝浩は何を考えていただろう、美咲は何を考えていただろう。
自分は、何を考えていただろう。


不意に孝浩が無言で立ち上がる気配がした。すると秋彦の隣に座っていた美咲も反射的に立ち上げる。兄ちゃん!と叫ぶ声でようやく顔を上げると、孝浩は部屋から出て行こうとしているところだった。慌ててその後を追う美咲、孝浩を引きとめようと、腕を掴んだ瞬間、乾いた音が広い空間に響き渡る。その光景を見ていた秋彦にすら、一体何が起こったのかを理解するのに少しの時間を要した。

こちらには背を向けている美咲の表情は見えない。ただ手で頬を押さえ、呆然と兄を見上げ立ち尽くしていた。きっと、信じられないと言わんばかりの顔をして。 孝浩自身も、どうしてそんなことをしてしまったのか自分で分かっていないようだった。ただ衝撃の余韻が残る右手を見つめ、そして弟を見据える。その表情は、怒っているような、今にも泣き出しそうな、何処か酷く、戸惑っているものだった。

「―――、んだ」

沈黙した空間に、美咲の震えた声が紡ぎ出される。はっと孝浩が美咲へと視線を戻すと、その弟は目を自分の兄へしっかり向けていた。

「大切なんだ」

やけにしっかりした声だった。まだ震えの残るそれは、広い空間にかき消されることなく、しっかりと孝浩と秋彦の耳に届いた。益々表情を歪めた孝浩へ、兄ちゃん、俺。と美咲は強く続ける。






ウサギさんが、大切なんだよ。


秋彦は、そんな二人をただ見つめていることしか出来なかった。













チン、と受話器が置かれた瞬間、自分が今までそちらを凝視していたらしいことに初めて気がついた。
いつの間にかこっちを向いていた秋彦と目が合う。何処か複雑な表情を浮かべている彼から視線を逸らすように、その場に立ち尽くしていた美咲は食卓の席へと着いた。やがて戻ってきた秋彦に何か言われるかと思ったが、秋彦もまた無言のまま席に着く。

「相川さん元気?」

努めて明るい声で問うと、あぁ、と曖昧な返事が返って来る。いい加減楽させてあげろよなーと軽口を叩き、ざわめく心を誤魔化すように笑った。

「頂きます」

二人顔を見合わせて朝食を食べ始める。さっきと何も変わらない、穏やかな朝だった。







「少し、考えさせてくれないか」

孝浩から電話が掛かってきたのは、全てを告げた数日後のことだった。
いつものような近況を話したりといった類の穏やかさは無い。冷静、というのではなく、感情を無理やり押し殺したような静けさを持つ今にも震えそうな声は、そのたった一言だけを美咲に告げる。既に痛みは引いた筈の頬にその瞬間、じわりと熱が蘇った。その問いに自分は頷いたのか、それとも無言だったのか、暫くの沈黙の後、孝浩は軽い挨拶と共に電話を切った。耳に残ったのはツー、ツー、という無機質な音。二人の関係やこれからのことについては、何も問われなかった。受話器を置いた後も、暫くそこから動くことが出来なかった。しかしその時美咲の胸を満たしていたのは、失意や絶望ではなく、大きな安堵と僅かな希望だった。

正直、全てを打ち明けることをずっと躊躇っていた。
両親を失った後、沢山の犠牲を払って美咲を護り、育ててくれた兄。小さな美咲にとって兄の存在は本当に大きく、心強いものだった。二人で過ごしてきた中で築かれた信頼は厚く、とても強い。しかし全てを告げることで、今の関係が崩れてしまうかもしれないという思いが美咲にはあった。
しかし大切だからこそ、全てを知ったうえで受け止めて欲しいと思ったのだ。関係を隠して兄を偽り続けることは、彼への裏切りだと美咲は考えた。痛む頬を押さえながら兄の出て行ったドアを見つめていた美咲は、少しも後悔は無い。例え真っ向から否定されてしまったとしても、美咲は認めてもらうまで何度でも説得しようと心に決めていた。
だから電話を受けたとき、本当に嬉しかった。考えさせて欲しいという言葉は二人の関係を肯定も否定もしていない言葉だったが、受け止めようとしてくれている、ということだ。こんな話、きっとすんなりと受け入れることなど出来ないだろう。そこにある感情の種類が様々だとしても、大半の人間は否定や困惑の色を示す。孝浩には酷く動揺している様子があったが、真っ向から自分の意見を押し付けようとだけはしなかった。例えこれから先、孝浩自身が導き出した答えがどんな形であったとしてもいい、逃げずに正面から向き合おうとしてくれた彼の姿勢が美咲には嬉しかった。
しかし3年経った今でも、電話は沈黙を続けている。

それが拒絶を示しているのか、未だ整理がついていないということなのかは、美咲には分からない。時の過ぎていく中での焦燥はよくないことばかりを想像させて、心の不安を煽る。もし孝浩が自分に見切りをつけたというのなら、それは美咲にとって否定以上に辛いことだ。こちらから連絡を取るという手段もあるが、様々な思案に恐怖する今の自分に電話を掛ける勇気は無かった。それでもきっと、いつかしっかり向き合わなければならない日がまた来るのだろう。
その時自分は、ちゃんと向き合うことが出来るのだろうか。どんな現実でも、しっかり受け止めることが出来るのだろうか。

今はただあの日の言葉を信じて、コールを待ち続けている。







Gymnopedie.1 (3つのジムノペディ1/E.Satie)


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