Reverie



「わかってますよ!だからさっき作家の方に連絡――」

意識が朦朧としている中では、自分の怒鳴り声でさえ頭にがんがん響き渡る。タクシーの運転手も先ほどからバックミラー越しに何度もこちらを気にする様子を見せていたが、今はそんなことを気に留めている余裕などない。今はとにかく印刷所へ締め切り延長の催促をすべく、美咲はひたすら吠え続けた。

「もちろん、はい!わかってますわかりましたでは!」

電源ボタンをぶちりという効果音が出る勢いで押したと同時にタクシーが静止する。美咲は支払い額より多めの金を運転手に掴ませると即座に車から飛び出し、「お釣りは!」と叫ぶ運転手の声を背中に受けながら、作家宅へ向かい真っ暗な夜道を駆け出した。

「先生!!原稿っ!原稿は・・・」

家にドタドタと上がり込むと、室内はまるで地獄絵図のような惨状。この職に就いてからというもの慣れ親しんできた光景だが、今回は特に酷い気がする。部屋の前で立ち止まった美咲は、一瞬言葉を失った。慌ててかぶりを振ると、物や屍のようなアシスタント達の間を抜けて、真っ先に作家の元へ向かう。

「・・・・・たかは・・・し、さ・・・」
「ちょ、先生!泣かないで!ほらあと少しですから!」
「俺っ・・・・・・すみま、せ」
「あぁあ大丈夫ですからほら、手、手動かして!」

美咲の顔を見た瞬間泣き出した作家を慌てて宥め、背中をぽんぽん叩きながら自身も泣き出したい衝動に駆られる。
修羅場は以前から何度も経験してきているが、こんなにも酷い進行は初めてだ。毎回何かと乗り切っていた締め切りも、今回ばかりは本当に原稿を落としかねない状況で、代原の準備すら進められている。しかし美咲が編集長と印刷所を拝み倒し、もう少し待ってほしいと粘りに粘った結果、何とか明朝までの時間は確保した。とはいえ、日付が変わった今、残された時間は多くない。

「あと6、7・・・・・・俺もトーン手伝いますから、頑張りましょう!」

頬の筋肉を無理やり押し上げ、引きつった笑みを浮かべてみせる。この作家は普段から情緒不安定なため、一歩間違えればヒステリックを起こしかねない。だから下手に刺激せぬよう、修羅場中接する時の態度も言葉の一言にしても慎重そのものだ。
すると少しだけ気持ちが和らいでくれたようで、作家は涙ながらに軽く頷くと、再び作業を再開した。美咲も雑多に物が詰まれた机上から何とかスペースを確保すると、カッターを片手に原稿へと向かい合った。

「・・・え?もう一枚あった・・・?っわあぁ大丈夫!大丈夫ですから泣かないで!!」

冷酷に進み続ける時計と泣き叫ぶ作家を目前に、本当に泣いてもいいだろうかと思った。

もう3年前の話だ。俺は何とか丸川の試験に合格し、こうしてジャプン編集部の編集者として入社を果たした。最初は他の編集者のサポートなど雑務ばかりをこなしていたが、最近ではこうして作家を担当することになったりもして、編集者としてそれなりに充実しすぎる日々を送っている。大学時代に相川の死にそうな姿や、丸川へ赴いた際に編集部の修羅場を見て絶対に出版職だけには就かないと思っていたのに、今ではその屍の中に同化している自分がいて、人生本当に何が起こるか分からない、と実感する。
目まぐるしく過ぎる日々の中、勿論嫌気が差したことも数え切れないほどにある。しかし、担当した本が売れた時の喜びを初めて知った時、この職に着いて本当に良かったと思うことが出来た。未だザ☆漢の仕事に直接携わることは叶っていないが、本を作るという仕事にやりがいを感じていた。

朝日が登り、奇跡的に終わりを迎えた原稿を何とか印刷所への入稿を済ました美咲は、会社へメールを入れた後そのまま自宅へと向かう。痙攣する体は最早気力だけで活動している状態で、少しでも気を抜けば今にも倒れそうだ。一旦会社に戻って拝借した資料等を返すべきかとも思ったが、今はとにかく一刻も早く睡眠を取りたかった。それ以前に、単に家へ帰りいというのが一番の理由だったりする。―― あの人が待っている家に。
高級感溢れるマンションの前で止まったタクシーに震える手で金を支払い、美咲はふらつく足でエントランスを潜り抜けた。










目前の原稿に集中していたにも関わらず、意識は僅かに耳を掠めた玄関のドアが開く音へ敏感に反応した。秋彦は即座に立ち上がるといつもより早い足取りで部屋の外へと向かう。渡り廊下から下へ顔を出したところで、自分でも表情が綻んだのが分かった。

「おかえり」
「・・・だい、ま」

ふらりとリビングへ入ってきた美咲が、秋彦の声に気がついて顔を上げる。空ろな目元にはくっきりとした隈が縁取られていて、顔色は決して良いとは言えない。すぐに前方へ向き直ってしまったその覚束ない足取りは、今にも倒れそうだった。美咲は足を引きずるようにしてソファーへ向かうと、倒れるようにしてどさりと突っ伏す。その衝撃で傾いた鈴木さんが美咲の体へ覆いかぶさるような形になるが、しかし彼にとってそんなことはどうでも良いらしく、美咲はそのままの体制ですぐに寝息を立て始めた。その様子を階段を下りながら見ていた秋彦は、ゆっくりとソファーへと近寄っていく。そっと覗き込むと、美咲は鈴木さんが圧し掛かった状態のまま、既にスヤスヤと夢の世界の住人と化していた。鈴木さんを退けてやっても、肩が呼吸に合わせて僅かに上下を繰り返す以外体はピクリとも動かない。さきほど見ていた疲労具合から言って、そう簡単には起きそうもないだろう。
三年前に美咲が就職してからというもの、二人の生活には大きな変化が生じた。互いに不規則な仕事柄、共に過ごす時間は大幅に減り、今日だって何日かぶりの帰宅だった。最近では作家を担当することになったと言っていたが、それからというもの修羅場ともなれば会社に入り浸ってしまうため殆ど家には帰ってこない。例え美咲が家にいる時であっても、秋彦が締め切りを控えている時は顔を合わせることが無かった。そんなすれ違いな生活を送る中、最近ではこうして顔を見れるだけでも良い方だ。そっと前髪を掻き上げると、疲れきった表情が露になる。蒼白した顔色も、目元の隈も、それはとても痛々しいものではあったが、久しぶりに見た美咲の顔に心が満たされるのを感じた。
静かに身を屈めると、その額に優しくキスを施す。

久しぶりのキス、
久しぶりに感じる温もり、
久しぶりに触れた、愛しい人。

こうして顔を見ただけで、会えない間に自分の心がどれだけ渇望していたのかを実感させられた。
美咲の体をそっと、起こさないように――最も、今の状況だと少しの衝撃では起きないと思うが・・・――持ち上げると、揺らさないよう慎重に階段を上っていく。以前は仕事明けに倒れた秋彦を美咲が介抱してたというのに、立場が全く逆転してしまったなと自嘲気味に笑う。美咲の部屋の扉を開けると、カーテンが引かれたままの薄暗い部屋の中へと静かに入っていった。



そう、もうあれから三年が経った。
何とか就職が決まり、あとは卒論だバイトだとそれからも色々忙しなかった美咲と、それでも卒業までは以前と同じように過ごしていた穏やかな日々。しかし、問題は全て解決したわけではなかった。美咲の就職が決まった時、そのことを一番に喜んだのは兄である孝浩だった。報告の電話をした際、受話器越しに号泣し出した兄の対応に困っていた美咲の姿をよく覚えている。それからも以前変わらず掛かってきていた孝浩からの電話、それはある日を境にして突然鳴らなくなった。あんなに頻繁に鳴り響いていたコール音が沈黙を守っていることに、過保護だと文句を言っていた美咲も何処か寂しそうな表情をしているのを知っている。それも全て、あの日話があると言って孝浩を家に招いた時のことが起因していた。







Reverie (夢想/C.Debussy)


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